梅田―難波の御堂筋約4キロ区間と大阪市役所東側一帯を禁止地区に指定した同市の路上喫煙防止条例(4月1日施行)は、違反者に過料1000円の罰則を科す罰則部分も含めて全面施行になった。
市路上喫煙防止条例の違反者から過料を徴収し、条例の内容を説明する指導員(画像の一部を加工しています)=1日午前、大阪市中央区で |
大阪・淀屋橋の市役所には午前9時、路上喫煙防止指導員12人が集合し、御堂筋を南下しながらマナーの順守を呼びかけて回った。街には条例を知らずに歩きたばこをする人の姿がちらほら。自転車に乗りながら喫煙していた男性会社員(25)は、指導員に呼び止められて過料を支払い、「全く知らなかった。気をつけます」と反省しきりだった。
市によると、午前11時20分現在、過料徴収の対象となった違反者は男女計27人だった。
asahi.comより引用
■今に通じる生きるヒント 出版続々
歎異抄の原本は散逸し、蓮如(1415~1499)によるこの写本が最も古いものだ(西本願寺蔵、写真は第3条の一部分) |
親鸞の思想を伝える「歎異抄(たんにしょう)」は根強い人気を集める仏教書だ。数々の現代語訳があり、今月出たばかりの五木寛之氏の『私訳 歎異抄』(東京書籍)も12万部突破の勢い。一方、仏教界からも日常語での思い切った訳が発表された。読みやすさを目指すだけでなく、現代に通じるメッセージを問い直そうとする試みだ。それは社会の変容を強く意識したものとなっている。
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今回、「仏教書という敷居をできるだけ下げた訳」を手がけたのは、真宗大谷派の研究交流機関である親鸞仏教センター(東京都文京区)。約10人で研究会をつくり、機関紙を通じて今春まで5年かけて発表した。批判覚悟の「試訳」という。
歎異抄は自らのおごりや愚かさ、有限性を直視するよう呼びかける。そこに気づくならば、ありのままで受け入れてもらえる世界がある――。悩める現代人にも生きるヒントを与える書として、宗教者だけでなく野間宏や吉本隆明両氏ら多くの文化人も試訳や独自の解釈を残している。
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という有名な一節がある。「自力」で善をなそうとする者(善人)より、「他力」(阿弥陀(あみだ)のはたらき)にすべてを任せる煩悩具足の者(悪人)こそ救われると、逆説的に表現している。
センター訳は、「善人でさえも、真実の自己になることができる。まして悪人はいうまでもないことである」。往生について、生きた人間の「宗教的な生まれ変わり」との意味合いを強調したのが特徴だ。さまざまな現代語訳=表=と比べると、表現の踏み込み方が際だつ。
あくまでセンターによる独自の研究成果で、本山(東本願寺)が公式訳と認めたわけではない。浄土は死後の話ではなく、生きている今、救われていくことと理解する。親鸞が語ろうとした浄土とは「闇に包まれた私たちの心が明るくされた世界」ではないか、というのだ。
ただ本当は、「往生」には死のニュアンスも込めたかったという。しかし、それにこだわりすぎると、現代では人々に届かない恐れがあると考え、あきらめた経緯がある。日常から死のイメージが遠ざけられがちな現代を意識してのことだ。
ほかにも大胆な訳として「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」という一節を、「愛には、人間の思いを中心とした愛と人間の思いを超えた愛の違いがある」とした。「愛」はキリスト教のアガペーに通じる響きがあるため、相当な議論となった。しかし、このほうが今の日本ではさまざまにイメージを膨らませてもらえると判断した。
センターの本多弘之所長(東京都台東区・本龍寺住職)は、「宗教感覚を伝える言葉が消えているからか、現代日本語には宗教的ニュアンスがうまく乗らない。それほどまでに日本語は今、深みを失っていると痛感した。だから逆に、例えば『愛』には『罪ある者を許す大きな慈悲』といったニュアンスを読み込んでもらいたい」。この試訳は書籍化の予定があり、議論の過程も明らかにされる。原典に触れる契機になれば、という。
浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)の僧侶で、自身も歎異抄の現代語訳を手がけている武蔵野大学大学院の山崎龍明教授(仏教学)は、「このような試みは、場合によっては批判を浴びて満身創痍(そうい)になるかもしれないが、尊い仕事だ」と宗派の違いを超えて評価する。
「伝統的な解釈を否定するわけではないが、歎異抄は多面的な可能性を持っており、いろいろな問題提起があっていい。現代はいじめや自死の問題なども深刻。時代に迎合するという意味ではなく、『響く言葉』を発信することは宗教者に課せられた宿題だ」
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●「善人なおもて……」の訳例(敬称略、括弧内は書名)
「善人ですら極楽浄土へ行くことができる」――(哲学者・梅原猛『梅原猛の「歎異抄」入門』)
「善人でさえ、アミダの浄土に生まれることができる」――(真宗教団連合編『歎異抄 現代を生きるこころ』)
「善人でさえも次生に真にして実なる西方浄土に往き生れることができる」――(東大名誉教授・佐藤正英『〈定本〉歎異抄』)
「善人(できのよい人)が阿弥陀仏の教えによって救われていくことができるのだから……」――(山崎龍明『歎異抄を語る』)
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〈歎異抄〉 鎌倉初期の僧で浄土真宗の宗祖である親鸞(1173~1262)の没後、親鸞が説いたものとは異なった教えが広まっていくことを悲しんで書かれた書。「歎異」は異議を嘆くの意。著者は弟子の唯円(ゆいえん)というのが定説。
asahi.comより引用
常楽台は本願寺第三世の覚如(かくにょ)の長男で、親鸞の玄孫(げんそん、曽孫の子)、存覚(ぞんかく)(1290~1373)が開いた。「花の御影」は縦134.5センチ、横79センチ。存覚が南北朝時代の1354年、夢で感得した親鸞の姿を画工、浄耀(じょうよう)に描かせたと伝えられる。
修理のため掛け軸の表具を外したところ、軸(長さ104.3センチ、直径3.6センチ)から墨書が見つかり、軸の中央部が3.8センチ×2.3センチの長方形にくりぬかれ、ふたをするよう細工されていた。
墨書は江戸時代に書かれ、▽寛文7(1667)年6月下旬、高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、親鸞の遺骨を銀の筒に籠(こ)めた▽宝永3(1706)年6月17日、遺骨を取り出し、宝塔に納めた--などと記されていた。「寂恵(じゃくえ)謹書」とあり、常楽台の第十三世住職寂恵が舎利容器でもあった軸から遺骨を出し、宝塔に納めたことがわかった。
宝塔は内部が3層になっており、下の2層に「親鸞の遺骨」と伝える骨片があるが、外部には知られていなかった。
存覚は覚如に義絶(勘当)されたが、一時は後継者の座にあり、遺骨を入手しやすい立場にあったことや、軸を細工して目につかないように納め、ひそかに伝えていたことなどから、千葉元学長は信ぴょう性が高いと判断した。「御影には存覚が夢で見た浄土にいる親鸞を描き、軸に納めた遺骨は人間親鸞を表す。遺骨と御影を一体として拝んだと考えられる」と話す。
親鸞は1262年、数え90歳で京都で亡くなり、火葬された。門弟らによる分骨とされる遺骨が三重県、栃木県、新潟県などの真宗寺院に伝わり、真宗大谷派(東本願寺)にも墓所「大谷祖廟」(京都市東山区)がある。【田原由紀雄】
◇遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書の3点セット
筆跡研究などの進展で今では親鸞の実在を疑う研究者はいない。だが、親鸞に直結する史料は乏しく、明治期には歴史学界の権威が「親鸞は架空の存在」と唱えたほど。1921(大正10)年に西本願寺の宝庫から親鸞の妻恵信尼(えしんに)から末娘覚信尼にあてた消息(手紙)が発見され、存在・非存在論争に終止符が打たれたが、遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書が3点セットとなって世に出た今回の発見は、それ以来の衝撃を与えそうだ。
重要なことは仏教者にとって遺骨は単なる史料ではなく信仰の対象という点だ。鎌倉時代の親鸞の遺骨が残ったのは、多くの門弟に慕われた高徳の宗教家であったことに加えて、没後も真宗教団の祖師として崇敬されているためだ。
親鸞は「それがし閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたふべし」と語ったが、覚信尼らは京都・東山の鳥辺野で火葬し、大谷に納骨した。東国の門弟らにも分骨されたとされ、今日まで伝わる遺骨もある。
没後10年、覚信尼と東国の門弟は遺骨を東山吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)を営み、親鸞の影像を安置。覚信尼が留守職(るすしき)と呼ばれる廟堂の管理者となった。親鸞の曽孫覚如は親鸞から孫の如信、覚如へと続く血脈によって法脈が受け継がれたと主張し、廟堂を寺院化して本願寺とした。
覚如の長男存覚は父を補佐して門弟の教化にあたり、いったん留守職を受け継いだが、後に2度にわたって義絶(勘当)された。学徳を兼備し、東国の門弟の信頼があつかった存覚に対する覚如の警戒心が義絶につながったというのが通説。存覚はさほど留守職に執着しなかったといわれてきたが、実は父に反発し本願寺の正統な継承者であることの証しともなる遺骨を隠し持って再起を期したという見方も成り立つ。新史料発見を機に本願寺教団の形成の過程、ひいては本願寺教団とは何かをめぐって激しい論争が起こりそうだ。【田原由紀雄】
MSN毎日インタラクティブより引用